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ナイトライド・ストーリー

Chapter 18

9.11テロから、5年経った。5年というと、近いようで昔のような微妙な年月だ。自宅マンションでTVに写し出される旅客機激突の瞬間を、特撮でも見るかのように平然と見ていた。会社を設立して、1年半という大変な時期でもあり、他人を心配できる余裕などなかった。ただ、アメリカには、世界各国に多くの敵がいるという認識があったので、起こるべくして起きてしまったという印象を持った記憶がある。「アメリカ傲慢の象徴」と言われた世界貿易センタービルが、一瞬にして崩れ去ったのも、アメリカの傲慢もいつまでも続かないという変化の兆しなのかもしれない。

日本は幸い戦後、東西冷戦の防波堤の役割を担うため、分割もされず、戦争補償も要求されず、むしろ積極的な復興支援によって、繁栄を謳歌してきた。したがって、アメリカに対しては、恩こそあれ、恨みなどあろう筈がない。ところが、中東イスラム諸国では、アメリカに対しては、中東戦争以前から宗教と石油の利権が絡んで複雑な感情が存在する。テロは、侵略戦争ではないことにおいて従来の領土拡大という明確なエゴ、全体主義とは異なる。その根底にあるのは、憎悪というもっと根の深い問題である。

なぜ、優秀な若者が、自らの命を投げ打って、一般の人々を標的にテロを実行するのか。戦争とは、兵士同士が国を代表して戦うものだ。一般人が一般人を標的にするという行為は、ブッシュ大統領の言うような戦争ではなく、イスラム社会からアメリカに対するメッセージだ。不幸なことに、このメッセージは、イラク侵攻によって戦争に突入してしまった。憎しみが憎しみを増幅するという不の連鎖に陥った。イラクでは4万人の犠牲者が出ているというが、罪もない家族、親、兄弟が犠牲になれば、誰でも銃を手に取って戦うだろう。このような状態になってしまうと、平和に戻ることは一層難しくなる。殴られたら殴り返したくなるのが心情であり、どちらかにしこりが残る。そもそも今回のテロ自体が、過去のしこりなのだから。

私はキリスト教徒ではないので、毎週教会に行ってお祈りをするという習慣はないが、キリストの教えである、「汝の敵を愛せよ」「片方の頬をぶたれたら、反対の頬を差し出せ」といったような、誰でも知っている教えを知っている。9.11テロの後、アメリカがこの教えに従い、反撃せず、世界の平和のために憎しみの連鎖を断ち切るという選択をしていれば、平和が訪れたかもしれない。今からでも決して遅くない。日本は、敗戦国という貴重な経験をした国なのだから、積極的に世界平和のために意見して行かなければならない。憎悪とその仕返しの先に得るものは、空虚しかないと。


さて、冒頭に、なぜこのような話をしたかと言うと、私は、弊社の起業がメッセージだと書いた。日本が、良い国になるために為すべきことは何か。人間は、不完全な生き物であるということを認識した上で、一生涯、罪を犯さないことはあり得ない。息を吸うこと、物を食べることさえ罪なのだから、生まれたことが罪とも言える。特に、経済活動は、矛盾だらけであり、豊かさのために、資源を無駄使いし、環境に良い製品を作るために、多くの材料、エネルギーを必要とする。

ある人に言わせると、現世は、出来の悪い者が、勉強する場と言う。とすれば、戦争も、大馬鹿者が勉強するために必要なのか。最近、自分の親、子供、友人を殺す事件や飲酒運転で人の命を奪うといった事故が毎日のように起きているが、これも馬鹿者の修行と考えれば腹も立たないのかもしれない。だが、そうではない。これらの不愉快な戦争、事件、事故が起きない社会を実現することが、現世に生まれた我々の責務と考える。これらを黙って見過ごすのではなく、声を大にして、正しいと思う意見を述べることが重要だと思う。経営者であれば、従業員が、道徳観念を持ち、正しい行いをするよう教育しなければならない。

先週、東京でLED専門の展示会があり、社員4人で、出展のために出張した。経費削減のため、車で片道9時間を、交代で運転し、ホテルは、4人1部屋で2泊した。以前であれば、なんだかんだと出張を拒否した者もいたが、今は違う。全員が、同じ時刻に目を覚まし、朝、夕飯を食べ、近くの銭湯で疲れを癒し、同じ時刻に就寝した。

この5年間で私が学んだことは、「ビジョナリー・カンパニー2飛躍の法則」(J.C.コリンズ著)に書いてあった「適切な人をバスに乗せるだけ」という言葉の本当の意味だ。野球、サッカー、バスケットボール等団体競技では、個々の選手の優秀さは、団体の一員として能力を発揮できるかということであり、能力を引き出せないのは監督の責任である。

私は、今まで選手の自主性と強制のバランスがうまく取れなかった。これは私自身の努力、能力不足の面がかなりあった。優秀な人をバスに乗せさえすれば、後は、放っておいても大丈夫と解釈していた。高い報酬を払って博士号を持った従業員を集めれば、素晴らしい製品ができるという幻想は、脆くも崩れた。

そして、最近、サッカー全日本代表のオシム新監督を見て、更に自分の無能振りに気付いた。そうだ、選手が走らなければ、走るように仕向けるしかないと。走らないのは監督の責任だ。「適切な人」の意味するところは、監督が走れと指示すれば走り続ける人のことだ。それは、理不尽な要求であれば、従う必要はないが、勝つという共通の目的があれば、監督の指示は自分の意志となる。従って、「適切な人」とは、会社の成長を自分の成長と感じられる人である。これは、能力の一つであり、思考、判断、知識といった能力と同等以上に重要な能力である。自分の利益より、会社の利益を優先することまでは要求しないが、現在与えられた仕事を高い次元で実現し、更に上を目指すことができなければならない。

世の中で、靴磨きから出世して億万長者になった人は多くいるが、一流大学から一流会社へ就職して億万長者になった人は少ない。これは、なぜか。億万長者になるために要求される資質は、与えられた境遇を最大限有効に活用できるかどうかということではないか。人は、靴磨きでは、能力が発揮できないと嘆き、ろくに靴も磨けないのに、より高いレベルの仕事に就きたいと希望する。ところが、実際には、靴磨きで一人前になれば、黙っていても次のステップが用意される。靴をきれいに磨くブラシ、クリームを開発するかもしれない。はたまた、お客さんが一生懸命靴を磨く青年を会社で採用してくれるかもしれない。

結局、転職を繰り返す人は、何処に行っても、会社が悪い、上司に恵まれないと愚痴を言って不遇の一生を終える。これは、残念ながら、努力でそのような資質が得られるものではないらしい。今までの経験では、あらかじめそのような資質を備える人とそうでない人がいる。従って、「適切な人」をバスに乗せるためには、乗員の入れ替えが必要だ。知識、技術は、教育で何とか補えるが、この資質は、教育では補えない。だから、資質のない人にはバスを降りてもらわなければならない。不思議なことに、降りて下さいとこちらからお願いする必要はない。向うから、辞めさせて下さいと願い出て来る。彼らには、バスの乗り心地が悪いのだろう。

勘違いがあってはいけないので、敢えて付け加えるが、私は、去って行った人達が無能だったと言っているのではない。乗ったバスの行き先が違っていたのと、私が彼らの能力を引き出す努力を怠っていたということに尽きる。そういう意味では、彼らには申し訳ないことをした。

今回は、テロを契機に5年間を振り返って、経営者として学んだことを述べさせていただいた。5年後、この文章を読み返して赤面することになるかもしれないが、出来の悪い者の一人として、ご勘弁いただきたい。

LEDEX2006にて、左から佐伯、川野、近藤、村本

LEDEX2006にて、左から佐伯、川野、近藤、村本

平成18年9月11日

9.11テロから5年

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