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ナイトライド・ストーリー

Chapter 19

私は、この章で、敢えて泥をかぶる覚悟を固めた。それは、徳島のある起業家の挫折がきっかけだ。

徳島という地に、10年前に来て、当初の信念が、この10年の間に、よく言えば人間が丸くなった。言い方を変えれば事なかれ主義になってしまったことへの反省の意味を込めている。私は、10年前に始めて徳島を訪れ、同じ日本でも随分遅れていると感じた。ここならば、自分の小さな力でも経済発展の力になれるかもしれないと思い、徳島ニュービジネス協議会の設立から、事務局運営を引き受けた。その団体の初代トップは、四国化工機の植田道雄会長だった。四国化工機は、今でこそ充填機のトップメーカー、更に日本一の豆腐生産量を誇る優良企業だが、会長が淡路島から徳島に来て起業した当時は、よそ者ということで、アパートを借りるにも、また、材料を調達するにも、大変な苦労をされたと聞いた。

私は、事務局運営をしながら、植田会長をはじめ、全国のニュービジネス協議会の歴代会長、東京では、CSKの大川功氏、ユニチャーム高原慶一朗氏、シダックス志田勤氏、他沢山の起業家の皆さんから創業当時の苦労話、思い出話を聞くことができた。これらの皆さんから直接うかがった話は、今でも私の記憶に強烈に印象付けられている。皆さんに共通することは、情熱と運と言える。どんな困難にぶち当たっても、決して諦めない信念と、その信念が運を呼び込んでいるように感じた。誰一人として、濡れ手に泡で成功していない。5年の間、私は、これらの先輩方が、その時々でどのように振舞うか観察できた。これらの経験は、私が、弊社を経営するにあたって大きな拠り所になっている。

私達の世代の憧れの経営者というと、ソフトバンクの孫正義氏、パソナ南部靖之氏、HIS澤田秀雄氏、ジャストシステム浮川和宣氏といったところだが、同世代という意味では、グッドウイル折口雅博氏、楽天三木谷浩史氏といった面々が挙げられる。それぞれ、時代背景は異なっても、困難の度合いは、変わらないと感じた。


徳島は、今でこそベンチャーの活発な土地柄というイメージがあるが、10年前はそうではなかった。私が、全国のニュービジネス協議会の会合へ、「徳島にニュービジネス協議会を設立したいので許可をいただきたい」と嘆願に行くと、「なぜ徳島なのか」と言われる程無名だった。その後、この時受けた侮辱を覆すために、賞金1000万円の徳島ニュービジネス大賞、最大規模の展示会の実施など、様々なベンチャー支援企画を打ち上げ、徳島のベンチャーの知名度が向上した。これらを実施するために、かなり無理もした。県、国からの予算を引っ張るために強引な仕掛けもしたし、理事、会員の皆さんにも出展、広告掲載などで無理もお願いした。そして、何をやっても多くの人から、小言を言われた。「大賞の受賞者が気に入らない」「運営がなってない」など、たった2人の事務局でやっているにも関わらず、やればやる程言われた。小言を言われないためには、おとなしくしていればいいが、本気でベンチャー企業を産み出すつもりだったので、手を止めなかった。そして、徳島から本当にベンチャー企業が出て欲しいと願った。

これらの事務局運営を真剣に支えてくれたのが、植田会長だった。「気に入らない」と少なからぬ理事が理事会を欠席する中、植田会長は、「俺が責任を持つから、存分に暴れろ」と言ってくれた。その代わり、しょっちゅう怒鳴りつけられた。それは、私が、理事会の議題に挙げると却下される可能性の高い議題を、理事会に掛ける前に、マスコミに発表して既成事実にするということを頻繁にやったからだ。会長は、その時は私を怒鳴りつけるが、「兎に角、やることが重要だ」とそれらの実施を擁護してくれた。徳島には、大塚製薬、ジャストシステム、日亜化学工業といった企業が存在する。これらの存在は、ベンチャースピリットが、この地にあることを証明している。以前書いた通り、周りの全てが応援する環境が必要だとは思わない。ただ、誰かが、気概を持って応援しなければ潰れてしまう。


私は、99年、起業インターンシップという制度を提案し、実施した。これは、学生が企業で研修するインターンシップと同様、これから起業しようという人が、同様のベンチャー企業で実地研修する制度である。この事業をNHKが50分の特番で「徳島ベンチャー道場」と題して紹介し、全国で放送した。

現在でも事業は継続されているが、第1回目の卒業生が、徳島の中心市街地で、おいしいベーグルサンドとコーヒーを提供する喫茶店をオープンした。この店は、若者を中心に人気となり、一時期は高松にも店を出す程だった。ところが、ご多聞に漏れず、大型郊外店による中心市街地の過疎化の影響で、先日店じまいとなってしまった。私は、オーナーから相談を受けていたので、なんとか支援したいと思い、週末その他、機会ある毎に利用していたが、残念な結果になってしまった。私は、このような人々を地元が一体になって支援していくような環境が必要だと思う。大きな影響力を持つマスコミ、金融機関、その他、周りの人々が、応援しなければ新しい産業は育たない。

私は、弊社を設立し、成功することが徳島の最大のベンチャー支援と信じて起業した。そして、その後すぐに協議会を脱会し、参与という名誉ある地位も返上しなければならないことがあった。私は事務局長当時、展示会を開催するにあたって、大賞賞金1000万円を捻出するためには展示会開催経費を削減する必要に迫られた。そこで、設営コストを下げるため、繰り返し使用できるブース小間設営用パネルシステムを、会員企業のハニカム難燃紙、ステンレスを使ったフレームとジョイント金具、そして、ソフト会社のCADソフトを活用して作り上げた。私は、事務局長時代に、これら以外にも、会員企業の製品を個人で購入して、ビジネスに活用した。それらが、会員企業の励みになり、活気が生まれた。

ところが、私の事務局退任後、そのパネルを使用しないことになった。結局、私は、製作に掛かった費用を回収できないという状況に追い込まれ、この少なからぬ費用を個人で負担した。これが、私が協議会を脱会した理由だが、この事実を知る人は少ない。多くの会員は、脱会したことだけ聞き、自分勝手な奴だと非難した。今まで、事実を封印してきたのは、所謂、ことなかれ主義に陥っていたことが理由だが、時間も経過したということと、ベンチャーを支援する風土として、これでよいのかと言う問題提起のため、敢えて公開した。


私は、何が、言いたいかと言うと、植田会長当時は、「事務局長が考案し、経費削減する目的で作ったパネルだから、何としても使わなければならない」と援護してくださった。他の理事が何と言おうと、鶴の一声で、その決定が覆ることはなかった。今の徳島には、残念ながら、そのような気概を持った人が、政財界等に少ないということだ。創業者は、起業時の苦労がわかるので、後輩に寛大だが、そうでない人たちは冷たい。

今でも徳島という土地が好きだし、ベンチャー企業が沢山産まれて欲しいと願っている。だから、敢えて今回は、昔のことを引っ張り出して、「徳島はこれでいいのか」と問題を提起させていただいた。植田会長が当時、「膝をつき合わせて、ざっくばらんに語り合える、本音で語り合えるニュービジネス協議会」と言ったように。

私は、企業のトップに要求される資質として、「泥をかぶることを厭わないこと」を、多くの成功した経営者から学んだ。これは企業に限らない。地域、チーム、サークル等すべてのトップに共通して要求される資質だと思う。全員が本音で議論をすることが重要だ。言いたいことが山ほどあって、愚痴ってばかりいるのに、表立ってそれを言わないことは罪だ。

私は、社団法人徳島ニュービジネス協議会が10周年を迎えるにあたって、その産みの親の1人として、本来のあるべき姿と違ってきてしまったという感が強く、それを言うべきかどうか悩んできた。しかし、前回も記述した通り、正しい日本、豊かな日本を実現するためには、正しいと思うことを勇気を持って語ることが重要と思い、言い難いことを書かせてもらった。この章が、波紋を呼ぶことは承知の上だ。この波紋が、別の波紋を呼び、大きな力になることを期待している。

平成18年9月22日

徳島ベンチャー道場第1期生 新町川のVIVASH 辻秀樹氏に捧ぐ

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