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ナイトライド・ストーリー

Chapter 1

このストーリーは、私がナイトライド・セミコンダクター社を設立するにあたって、これから経験する全てを正確かつ詳細に記述することにより、成功すればともかく、たとえ失敗しようとも、これから起業しようという人々の様々な意味での参考にしていただこうと思い筆を執った。

私は4年間勤めた経済団体の事務局長という立場上、県内外の様々なタイプの経営者と会う機会に恵まれた。その数は、数百人という膨大な数に上ると思われるが、正確には把握していない。その中でも、成功を収めた経営者には一様に共通点があることに気付いた。それは、人並みはずれた行動力と、直観力といったような当たり前の共通点ではなく、一言で言ってしまえば「出会い」であり、まさに運命的な出会いを大部分の人が経験しているのである。そして、紆余曲折を経ながら、次の困難に出くわした時点でまた、待ってましたとばかりに、また別のメシアが現れて救済されるのである。これは、偶然と呼ぶにはあまりにも出来過ぎた偶然である。これは、サッカーでエースストライカーと言われる人達が、なぜか、たまたま、ゴールキーパーがはじいたボールが目の前にころがっていたり、ミッドフィルダーから繰り出されるスルーパスが練習でも来たことがない程絶妙な位置に来るのと同じようである。これは、一言で「ラッキーでした」としか言い様のないことだが、ラッキーには必然があるということを、ベンチャー企業の成功した経営者にも感じることができる。

現在のインターネットブームを引き起こしたネットスケープコミュニケーションズの創業者ジム・クラークは、最近発刊した著書の中で書いている。「私は、1998年、セントルイスのブッシュスタジアムでマクガイアの70号ホームラン記念ボールをキャッチして3億円を手にした観客と同じだ。彼は、野球を観るためにチケットを買って、ちょうどよい時に、ちょうどよい場所にいただけなんだ」と。これは、今では、当り前になっているインターネットでさえ、ジム・クラークが、マーク・アンドリーセンと出会ってインターネットの将来性に目覚め、幾多の困難を乗り越えて実現したのだけれども、その出会いがなければ実現しなかったことを語っている。実際、ジム・クラークが小さなベンチャー企業で働いていたマーク・アンドリーセンを説得して特許侵害も恐れず最新式の閲覧ソフトウエアを一緒に作り上げようと言わなかったら、インターネットブームは来なかったか、何年か先になっていただろう。

従って、私の今の状況を端的に表現するならば、なぜか突然目の前にゴールが現れ、そこに降って沸いたかのごとく、ボールが転がっている。ゴールキーパーは大きく手を広げて向かってくるが、うまくすればシュートを決められるかもしれない。とそんな状況ではないだろうか。ジム・クラークはシリコングラフィックス社、ネットスケープコミュニケーションズ社、ヘルシオン社という3つの数百ドル規模のスタートアップ企業を立ち上げた起業家だが、「私は、ビジネスチャンスをチラリと覗く特技を持っている。起業家の一生の中で自分には明らかに宝石だと分かるのに、競争相手が誰一人気付いていないというチャンスに恵まれることはそうない。」と語っている。

従って、私はこの文章を打ちながら、溢れる笑いを堪えているが、周りの人々は、心配と疑いの目を持って私の動向を見守っている。なぜなら、この事業は、私以外にもたくさんの人々が、知っていて、その素晴らしさも認めているにも関わらず、誰一人として本当に事業化することを考えた人がいないのだから。これは、もしかしたら、彼らが正しくて、私が勘違いしているのかもしれないが、現時点ではどちらが正しいのかわからない。

さて、今現在、私は、まだ、社団法人徳島ニュービジネス協議会の常務理事・事務局長をしている。従って、年度末にあたる今は、同協議会が国、県から受託した事業の精算業務や最終報告書をまとめるといった煩雑な仕事をしたり、全国各地から意見交換会や講演に呼ばれたり、また、自ら経営するイベント会社の現場に設営に行ったりと忙しい毎日を送っている。従って、この新会社に関しては、4月中旬に設立し、具体的に動き出すことになっているが、成功するか、失敗するかということは、皆目見当もつかないし、明日になれば大企業が製造に成功して、設立することすら無意味なことに終わっているかもしれない。ただ、そうだとしても、全てのベンチャー企業がそのようなリスクを犯して、事業の成功を夢見て設立され、ある者は成功し、ある者は失敗して行く。このような誕生と終焉の連続こそが、ベンチャー企業が育つ環境と言える。どんな事業も成功を保証されたものはないのだから。


まず、私が、徳島という地方でこの企業を設立するに至った経緯をお話ししなければならない。そのためには、まず私が社団法人徳島ニュービジネス協議会の事務局長を任せられることになった経緯をお話ししよう。私は、もともと、出身は名古屋の閑静な住宅街で、父が開業弁護士というどちらかというと豊かな家庭の三男坊として育った。三男坊といっても、次男と私は一卵性双生子なので、兄は一人だと思っている。小さいころから、旅行で新幹線に乗るときはグリーン車、夏は箱根の竜宮殿で避暑という、今から思い出しても贅沢な子供時代を送っていたし、近所の友達もいわゆるいいとこのお坊ちゃんばかりだった。父は、仕事が暇なのか、よく我々とキャッチボールをしたり、ラジコン飛行機を飛ばし(墜とし)たり、冬には我々に授業をサボらせてスキーに行ったりした。そんな父を見て、私も大きくなったら弁護士になりたいと思っていた。父は、機会あるごとに、「サラリーマンなんてつまらないものには、絶対になるなよ」と口癖のように言っていた。私は、末っ子だったことと、車好きの趣味が父と共通だったこともあって、何時も父に遊んでもらっていた(遊んであげていた)。そして、大学受験の時、長男は中央大学の法学部に通っていたが、次男は浪人、私は、国立に失敗して、唯一合格した慶應義塾大学の法学部法律学科に進学することになる。ここで、最初は、スキーの同好会に入ってチャラチャラ遊んで過そうと思ったが、途中で空しくなり、勉強しないんだったら運動でもして体を鍛えようと、体育会器械体操部でストイックな学生生活を送ることになる。当時、既に過去の栄光とは裏腹に、全く弱くなってしまって先輩にも呆れられるような状態ではあったが、練習量だけはどこにも負けないということが唯一の我々の誇りだった。毎日8時間も体育館(日吉記念館)で練習に励み、へとへとになって帰宅するという毎日であった。伝統の早慶戦も我々が3年生の時、後ちょっとで勝てそうなこともあったが、結局勝てなかった。3年の冬、その責任をとって坊主頭になったこともある。そんなことで、私の卒業写真は、まだ毛が伸びきっていない中途半端なみっともない頭で写っている。

こんな学生時代も終わり、名古屋の日本ガイシ(碍子)と言う一部上場優良企業に就職する。その理由は、ここだったら司法試験の勉強をするチャンスもあるかなという不謹慎なものだった。会社の役員は小さい頃一緒に遊んだ友達の親父や、実家の近所の住人だったので、やりやすいというか、言いたい放題、やりたい放題やらせてもらえた。朝早くから出張する時は、黒塗りの車が、迎えに来てくれた。ちょうどそこに新聞を取りに行った親父が、「おまえは偉い人」だなと言っていた。そんなことで、最初は総務部の広報室という会社の全体を見渡せるセクションで、社会経験を積むことになった。そんな中で、企業理念、広報、広告宣伝といった企業全体を考える習慣が身についた。中でも、CIの事務局として、ビジュアル、とメンタル両方のアイデンティティの重要性を学んだのは大きな収穫であった。ただ、一番学んだ点は、若い優秀なやる気のある社員が、年を経るにつれて、やる気を失っていくことである。それは、年功序列と、終身雇用に起因するものだったが、いつしかそんなに頑張っても逆にマイナスになると思うようになるのは、残念なことだった。なぜ、事情を一番知っている担当者が決めれば十分と思われる事をわざわざ何人もの上司にお伺いを立てて決めなければならないのか全く理解できなかった。だから、いつしか、こんな所に長居は無用だと思うようになっていた。

最初の転機は、入社4年目の冬だった。名古屋で89年7月から11月まで開催された名古屋デザイン博覧会'89のパビリオンの取りまとめを担当することになった私は、森村グループ8社の若手を集めて企画、実施、運営をおこなった。その統率力が高く評価されて、テレビのインタビューの対応等に忙しかったのと、多少若気の至りで傲慢になっていたこともあったと思われる。イベントプロデューサーらからの誘いにのって、会社を辞め、共同経営者の一人として、東京の渋谷代官山で、広告代理業を始めることになった。この時、両親は、表向きは反対していたが、私のいないところで、父が「やっぱり、わしの子だな」と言っていたそうだ。これが、90年2月のバブルの最後の頃である。この会社は、黒澤明監督の助監督を務めた人、大手広告代理店、テレビ局を辞めて来た者、有名演出家など、7名で構成されていた。今から思えば私が最も専門的能力を持たない訳だが、当時の私にはそんなことがわかる程、世の中のことをわかっていなかった。高条件に引かれて来たのだけれども、雇われ気分が抜けきらない傲慢な若者に見えただろう、半年も経たないうちに社長と喧嘩をしてその会社を去ることになる。

その後、実家に戻ろうとしたが、父に、「啖呵を切って出て行ったんだからうちの敷居は跨がせない。自分で責任を取れ」と追い返されてしまう。ここから、お金の苦労が始まるのだけれども、1円が足りなくてパンが買えず、路上で物乞いをしている人々を、羨ましく見ていた覚えがある。だが、自分には、彼らと同じように物乞いをする勇気もないのを情けなく思い、いっそのことこのまま死んだ方が楽かなと思ったこともあった。そんなことも言っていられないので、日当8000円の引越しのアルバイトをすることになるのだけれども、プライドが捨てきれずにいた当時の自分にはこれがまた大変だった。運転手の横に乗って順番に引越し先を廻って荷物を積み込んでいくのだが、運転手が、「おまえはどこの大学を出たんだ」と聞かれて「慶應です」と答えると、「俺はそんなすげー大学の奴を始めて載せた」と言って余計にこき使われた。雨の降る中、重いものを運び、犬のフンを踏んで泣きたくなったこともあったが、運転手が意外に立派なことを言うことに驚いた。彼らは毎日を真剣に生きているから、甘えがなく、信念をしっかり持っていた。だから、私が今まで知り合ったどんな偉い肩書きの人々よりも、人間的魅力に溢れていた。私は、この時から、どんな職業の人でも、その肩書きだけで人を判断することをやめた。これは、妬みと言ってもいいのかもしれないが、逆に肩書きの偉い人を軽蔑しているところがある。そんなことでアルバイトをしていたら、以前からつきあいのあったイベント会社の役員から、「そんなことやってるんだったら、騙されたと思ってうちに来い」と言われて、イベントプロデューサーのもとで修行を積むことになった。

どん底にいると、妙に気が楽になって、これもなかなかいいなあと思うことが多かった。たとえば、汚い格好をして、錆びついたボロボロのバンで仕事の打ち合わせ先の大企業に行くと、警備員が何か用かと言わんばかりの表情で出てくるのを、おもしろく思った。また、イベント会場に行くと、掃除、荷物運びなどの下働きをするのだけれども、今まで自分がそうであった様に、クライアントと言われるスーツ姿のエリートは、我々を人間と認めていなかった。我々が目の前に存在しないかのような、振る舞いをするのである。これは、中々面白い経験であった。そんな経験をするうちに、なんだか今までつまらないことにこだわって窮屈な思いをしていたような気がしてきた。それで、こういう生活もいいかなと思い、結果として4年間もイベントの修行をすることになった。幸い、実力を付けて、コンピュータ、情報通信関連大企業の展示会を中心に、多くのイベントをプロデュースした。ここでの知識が、現在の仕事にも大いに役立っているのは、偶然というには偶然過ぎるかもしれない。

それから、ソニー生命保険会社がヘッドハンティングと称して、営業マンの勧誘に来た。私は保険のセールスマンになる気は毛頭なかったが、その親会社がソニーという日本を代表するベンチャー企業であるということと、年率150%以上の急成長を遂げているということに関心を持った。それで好奇心旺盛な私は、首を突っ込むことになる。ソニー生命は、徹底した能力主義で完全歩合給制、稼げないと給料がゼロになることもあるという厳しい欧米並みの文化で成り立っていた。ヘッドハンティングによる最高の営業マンに、最高の商品、最新の携帯コンピュータで武装した営業部隊は、毎日鬼軍曹に尻を叩かれながら命がけで突撃する。従来の古い慣習がはびこる金融業界において、この企業が伸びない理由は見当たらなかった。私も、短い期間ではあったが、多くの契約を取った。

そうこうするうちに、徳島で伝統のある中堅企業の社長を継いでいた大学の器械体操部の後輩から、徳島でベンチャー企業をやらないかという相談を受ける。最初の話では、六本木の飲み屋で女の子に囲まれて酒を飲みながらの話なので、詳しくは覚えていないが、県が拠出する何億円だかの財源があり、それを使ってベンチャー企業を徳島に起こすという話だった。例によって好奇心が旺盛で人を疑うことを知らない私は、ちょっと話がうま過ぎると思ったが、その場で、引き受けると返事をした。それからちょっと経って、徳島へ行って詳しく話しを聞くことになった。その頃には、あったはずの大金の話はなくなり、協議会を作りたいのだけれども、私の給料だけはなんとかするから、事務局運営をやってくれという話になっていた。随分話が違うとは思ったが、もう会社には辞める意志表示がしてあったので、戻る訳にも行かず、まあ、自分の実力でなんとか食って行けるだろうという安易な気持ちと、ベンチャー企業の勉強にはなるかなという気分になっていた。この一件があったので、私は講演をする度に、なぜ、徳島に来たのかと尋ねられると、冗談混じりに「騙されて来ました」と言うことにしている。これは、半分は本当だからであり、ただ、判断したのは自分自身だから、このことを取り立ててどうこう言うつもりはない。

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